Bruce Fink「ラカン派精神分析入門――理論と技法」1997
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ラカン派精神分析入門:理論と技法 | ブルース フィンク, Fink, Bruce, 之信, 中西, 貴史, 椿田, 徹男, 舟木, 建志, 信友 |本 | 通販 | Amazon
Bruce Fink「後期 Lacan 入門――Lacan 的主體について」1995
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後期ラカン入門: ラカン的主体について | ブルース・フィンク, 村上靖彦, 小倉拓也, 塩飽耕規, 渋谷亮 |本 | 通販 | Amazon
Bruce Fink「「Écrits」を讀む――文字に添って」2004
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"エクリ"を読む:文字に添って | ブルース フィンク, Fink,Bruce, 真道, 上尾, 拓也, 小倉, 亮, 渋谷 |本 | 通販 | Amazon
Bruce Fink「精神分析技法の基礎――Lacan 派臨床の實際」2007
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精神分析技法の基礎 ラカン派臨床の実際 | ブルース フィンク, 椿田 貴史, 中西 之信, 信友 建志, 上尾 真道 |本 | 通販 | Amazon
現實界 R > 象徵界 S > 想像界 I
豫備面接$ I\leftarrow S(L 圖)
神經症だと診斷したなら、欲望を產出する
診斷する (精神分析での診斷)
患者が二つの臨床構造の上にゐるのではない。境界線上で迷ってゐるのは、診斷を考へてゐる臨床家のはうである。
いったん精神病を發症すると、その時點で分析主體の「身體は取り圍まれ、語ることも解讀することもできない享樂によって攻撃され、あちこち橫切られるからである。神經症の場合は、むしろ身體は砂漠のやうに荒涼としてゐるのだが」
患者が分析に本氣になって取り組みだすのは、彼らがさうしたことを問題にし始めるとき、つまり自分の發言における「何、なぜ、誰」が患者自身にとって問題となるときである。
疎外$ \frac A{\cancel S}→分離$ \frac a{\cancel S}→根源的幻想の橫斷 (work through)$ \frac {\cancel S}a
(現實界$ R、象徵界$ S、想像界$ Iとする)
疎外$ R\backslash I、$ \frac A{\cancel S}、$ Ps
原抑壓
固着
一次 narcism とその斷念
(享樂の) 直接的な放出が象徵的な方法によって抑制された
「純粹な快」は、從順にか、反抗的にか、愛らしくか、いづれにせよ、かうした他者を包含し始める
分離$ I\backslash S、$ \frac a{\cancel S}、$ Dr
抑壓 (Verdrängung)
固執
二次 narcism とその斷念 (甘え、躾)
根源的幻想$ \cancel S\diamond aの橫斷 (work through)$ S\backslash R、$ \frac {\cancel S}a、$ O : Ps\lrarr Dr
執着
ボロメオの輪を構成する$ R-S-I
治療者は幸福も治癒も約束することはできないけれども、必要とあらば、物事に對する新しい approach、人との新しいつきあひ方、世の中を渡ってゆく新しいやり方を分析主體に約束することはできる。
橫斷 (work through)
passe
知を想定される主體 (S.s.S) の失墜
治療の終結
神經症者の分析に取り組む場合、治療者は、患者に分析を續けて欲しいといふ欲望を常に表明しなければならない。たとへ自分の分析はもう終ったと感じてゐても、さうすべきである。かうした患者たちも、自分自身の道を進まうといふ欲望が充分に強く決定的なものとなったときには、分析を打ち切るだらう
症狀
症狀こそが、享樂を得るための手段として患者が知ってゐる唯一のものなのだ。
患者は生きる意思をもはや持たないからこそ、何もしたくないからこそ治療に行くといふことが多い。もっと言へば、彼らの libido が押さへつけられ、弱ってしまったと感じるから治療に行くのである。
彼らの欲望は死にかけてゐる
症狀から得られる滿足 (享樂) がもう充分ではなくなったときや、それが他人に侵害された時、あるいは他の諸要因によって滿足感 (享樂) が急激に少なくなったり、妨げられたりしたときなどに治療に行くやうになる。
分析家の欲望$ a(對象 a)
治療を續けようといふ患者の欲望はいづれ必ず萎えるか、完全に消えるものだ
分析主體には、自分の生活のなかで起こり得る他のいかなることよりも、分析を最優先させるやう分析家が期待してゐることをわからせなければならない。ある種の制限內ではあるが、生活が分析を中心に組織化されるのであって、逆ではない
患者は治療を中心にして日々の豫定を組み立てることになってゐるのであって、その逆ではない。
分析家は自分が重要だと思った素材を強調するのを恐れてはならない。各素材の背後に何があるか、分析家はそれをとうてい知ることができない以上、必ずしも他の素材を除外するわけではない。しかし、無意識 (Ubw)を強調することによって、分析家はまさにこの素材について聞きたい、といふ「分析家の欲望」を示すのである。
分析家の苛立ちは、どのやうな場合でも、たいていは次のやうなことを示してゐる。つまり、さうしたとき、分析家は話題を變へる機會や、質問したり、何かをより深く探ったりする機會を逸してしまひ、ついには「elegant に」さうする機會へ戾れなくなってゐるのである。すなはち、それは介入する機會を逃した分析家の欲求不滿を表してゐるのだ。
治療者の前提
1. 治療者自身が徹底的な分析をすでに受けてゐること
2. 治療者が治療は前進してゐるとはっきり感じてゐること (患者自身は停滯してゐると思ってゐるにせよ)
3. 治療者自身の逆轉移によって、その治療が泥沼に入り込んでゐないこと
4. 患者自身の欲望が兩親によって絕えずことごとく邪魔されるといふやうな患者を治療してゐるのでないこと
cf. 家族療法 (family therapy)
分析家が他の欲望に依存すると
「そのときの權力」が許可すれば、治療者は一緒に來てくれるだらう、と患者に思はせることになる
さうではなく
「私は擔當の患者さんとはおつき合ひしないのです」
現實性についての治療者の見方といふのは、治療者自身の逆轉移の一部である
「分析家自身の抵抗以外に、分析へのいかなる抵抗もない」
「分析作業の進展を妨げるものはすべて抵抗である」
「本人の欲動を滿たしてはならないと云ふ」治療の禁欲は、分析家の欲望$ aが「人の欲動を滿たすか否かを決めるのは共同體だけだ」と云ふ共同體からの要求$ Dに屈する事だ
解釋 (Deutung)$ S\leftarrow R
欲望を引き受ける
意味$ \frac S sへ短絡させない
多義的 (機智) である
無意識 (Ubw)の形成物
虛 (idola) を衝く
神託。公案。謎
時に分析家は特定の意味を提供しなければならない。たとへば、分析がある種の轉移 (Übertragung)にはまり込み、分析家が作業を行へなくなる場合である。
暗示 (催眠) ではない
自由聯想
分析家は、分析主體に對して、心に浮かんだすべてのことを言ふやう要求する。
自動思考 (automatic thought) は抑壓 (Verdrängung)の境 (鬼 (idola))
對抗備給
自動思考 - 媒介信念 - 中核信念
夢の仕事
ナラティブセラピー - Wikipedia
夢分析
象徵でもなく、解讀でもない
しるし
Giorgio Agamben「事物のしるし」2008Giorgio Agamben「事物のしるし」2008.icon
あまりに短すぎて分析には何ももたらさないので捨てるしかないといった夢など一つもない。
惡夢
いづれにしても、次のことは經驗的事實である。私の夢が私の要求と一致し始めるとき (誤って言はれてゐるやうに、現實 reality とではない。現實は私の眠りの守護者となる)、あるいは、ここでは同じことになるが、他者の要求と一致し始めるとき、私は目覺める。
他者の要求$ Dが他者の欲望$ aを抑壓 (Verdrängung)する
自由に漂ふ注意
精神分析は彼が何を言はんとしたか what he meant といふことよりは、むしろ彼が實際に言ったこと what he actually said のはうに關心を向ける
知行不一致 (知行合一)
字義をはぎとる (deliteralize)
聞き乍ら memo をとらない
句讀點
言ひ換へ (rephrasing)
反射 (reflecting)
區切り (可變時閒 session)
去勢$ -\varphi=\Phiの再現
外からの法や資本制$ Dより、分析家の欲望$ aを優先する
時閒
眼差しの瞬閒 l'instant du regard
理解の時閒 le temps pour comprendre
結論の時 le moment de conclure
電話分析
轉移 (Übertragung)
同一化、投射
L-link
隱喩 (metaphor)、置き換へ (換喩 (metonymy)。置換)
轉移性戀愛 (甘え)
「轉移 (Übertragung)の轉移 (Übertragung)はない」
他者の他者はゐない
meta 言語は存在しない
轉移 (Übertragung)を解釋 (Deutung)するのではなく、轉移 (Übertragung)に於いて徹底作業 (橫斷 (work through)) する
轉移 (Übertragung)を解釋することは一般に無意味である
この短い解釋 (Deutung)では、言表內容の主體は省かれ (たとへば「私は思ひます」は使はない)、言葉の配列は少し變はるだらうが基本的に分析主體自身の言葉が使はれる。その結果、誰が解釋 (Deutung)を生み出したのか、分析主體にとってはそれが完全にははっきりしなくなる。それにより、かうした解釋 (Deutung)が轉移 (Übertragung)した《他者》から生じたものとして體驗されたり拒絕されたりすることがいっそう難しくなる。
まづ名詞は本人の言った名詞を使ふ。次に動詞・修飾語も本人の言った語・言ひ囘しを使ふ
(轉移 (Übertragung)を解釋 (Deutung)する分析家は) 患者に對して、文を最後まで言ふことをほとんど要求してゐない。その結果、患者は驚異的な數の思考を檢閲できることになる。
共感的內省的檢索 (自己心理學 (Self psychology)、Heinz Kohut)
分析家は screen や鏡として振る舞ふ
治療 - 本人の關係
逆轉移が分析主體に關する情報を齎す事は無い
つまり、Lacan の見方によれば、轉移 (Übertragung)と逆轉移は、象徵化の重要な process すべてが失敗するときに生じるのであって、分析にとってなにか生產的なことが起こるときに生じるのではない。轉移 (Übertragung)と逆轉移とはそれゆゑ方向を逸らすものであり、想像的なおとりであって、精神分析的になにか重要なことがなされるときではなく、停滯のときと結びついてゐる。轉移 (Übertragung)と逆轉移を直接扱ふ作業はある水準では分析主體に滿足をもたらすだらうが、Lacan 派の精神分析が目指してゐるやうな變化を生み出すことはない。
「今日では、逆轉移が無意識 (Ubw)への王道だと考へられてゐる。夢ではなく逆轉移が、である。」
分析家自身の逆轉移は分析主體との閒主觀性 (想像的$ a'-aな鬪爭) に於いてではなく、自己分析や supervision (敎育分析) で徹底作業 (橫斷 (work through)) されねばならない
かうして supervisor は、分析主體の語りから、分析家自身が聞いた場合よりもはるかに多くのことを聞くことができる。それは、必ずしも supervisor の何年もの經驗や「竝外れた洞察力」によるのではなく、治療室では避けられないさまざまな想像的なものから、supervisor が遠く離れてゐるからである。
分析家は自身の意識ではなく自身の無意識 (Ubw)に依據しなければならない
欲動 (es (其れ、id)、libido)、要求$ D、欲望$ \cancel S\diamond a、享樂$ J
要求$ D
要求には常に、何かに對する一種の固着が含まれてゐる
「要求」とは、必ずしもそれを本當に欲しいわけではないのに、わたしが欲しいと言ってゐるもの、あるいはさうであるかのやうに行動で示してゐるもの
享樂$ J
「現實性」による侵⻝
兩親が子供に押しつける、これをしろ、あれはするなといふ要求 D
快樂原則、現實原則 (限界遵守)
性感帶
自我 : 理想自我$ i(a)$ I、自我理想$ I(A)$ S、超自我$ S(\cancel A)$ R
#藏書